物語 小説

完全な遊戯

完全な遊戯

石原慎太郎

あらすじ

深夜二人の男が車を走らせていると、一人の女が道路脇に佇んでいた。

調子のいい台詞で車にのせ、強姦する。

素性の知れない女なので、監禁し売春宿に売り飛ばす。

しかし、女は精神疾患を患っており、売春宿の主人から引き取ってくれるよう申し渡される。男たちは悪事を隠蔽するため女を殺し、海へ捨てる。

社会への警鐘としてはやりすぎだよ。真剣に書いたわけじゃなく、好奇心で書いたとしか思えない。

健全な人間は吐き気を催しますよ。

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桜桃

桜桃 
太宰治/角川文庫



あらすじ

表面上は立派な家庭、夫婦仲は良好。

実際妻は「涙の谷」と己を揶揄する行き詰った家族。

夫は自分がかわいそうで仕方ない。家族に気をつかいながらも結局は自分が一番かわいい。自己正当化を書き連ねている。

「かわいそう」であるがゆえ外に女を作ることも許され、高級品である桜桃など食べている。

しかし、良心の呵責からか、味などまったく感じない。

夫の苦悶が、家族にくっきりと影を落としている。

底知れぬ暗さが全編に漂っている。

「子供より親が大事、と思いたい」

との殺し文句も、ただの正当化だと理解している。自分に嫌気がさしている。

「涙の谷」たる妻のすべて分かっている。そのうえであえてやっている。

脆弱な男が、破滅に向かうヒタるタイプの小説。

反面教師ととらえるか。夫を肯定し、彼の行動をなぞるかは、読者の自由。

これ小説か?

【本日の走行距離 5キロメートル】

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第十五回 幻夜

幻夜

東野圭吾/集英社文庫

『白夜行』とともに知り合いから手渡された。一緒に読めということだろう。

人から勧められたものにはきちんと相対する、というのが僕のスタンスであるため、今回もスナオに読む次第となったわけだ。

この『幻夜』は『白夜行』の外伝あるいは続編というべく意図的で思わせぶりなシーンが配されているが、どちらかといえばセルフパロディであるというのが僕の印象だ。

というのも美冬=雪穂のキャラクターが『白夜行』よりも一貫しているのである。

一貫して冷厳なのである。雪の女王といったところだ。

『白夜行』の補足といってもいい。

『白夜行』のラストでの雪穂の反応は曖昧で、それゆえの余韻を読み手に与えていたのだが、この『幻夜』では、断定的である。

個人的には『幻夜』こちらの方が面白いかな。

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第十四回 白夜行

白夜行

東野圭吾/集英社文庫

何かを得るのを目的とし生活を犠牲にする人間もいれば、過程にこそ価値を見出し日々感じ生きられる人間もいる。

ミステリーとしてはプロットが練られておらず、さらには第一章の時点で犯人と動機が読めてしまう。

倒叙ともいえる作品だから問題ないのかもしれないが、真正面からのミステリーでない分、緊迫感と期待感がもてない。

もちろん心境小説として扱うこともできない。

しかし構成が非常に面白い。三人称小説なのだが、章ごとに視点が入れ替わるつくりである。章主人公と呼ぶべき人物が配されており、原則その章は彼らの視点で物語がすすめられる。

一方メインの二人、亮司と雪穂の視点は皆無である。この二人には主観描写が全く存在せず、すべて客観描写なのだ。実験小説といってもいいような構成である。

白夜のごとくほの暗い人生を歩む二人を、可能な限りドライに描ききったという意気込みを無視するわけにはいかない。亮司と雪穂の接点が全くないのにもかかわらず強固な結びつきを感じさせ、作者なりの思い入れが感じられる。

物語の主題は、と考えを及ぼした時に何も浮かんでこない。

少年と少女の成長物語でもない。二人は小学生にしてすでに完成されてしまっているからだ。思想と実現手段に成長がみられない。

謎解きの要素が少ないため、推理小説でもない。解き明かすことに主眼が置かれていないなら、テーマはほかにあるはずだ。しかし淡々と描きすぎているため、作品からあぶり出されるメッセージを受け取ることが困難なのである。

かろうじて、女王として君臨し続けるためにもがく雪穂の縛られた生、ということになろうか。

あれだけ才覚のある二人だ。先見性も行動力も大胆さも緻密さも意欲も兼ね備えている。

力を合わせ堂々と太陽のもと生きていくのが二人には似合っている。

しかし二人は太陽を避けた。

作者は亮司と雪穂が太陽を避けた、あるいは避けざるをえなかった理由を書くべきだったのだ。そこだけは熱く書くべきだった。この小説には不可欠な要素である二人の決断に触れられていないのは残念でならない。

小説として点数をつけるなら辛くならざるを得ない、が試みは評価する必要がある、といったところか。

女王として君臨するため手段を選ばない雪穂が憎くもあり、また身を切る姿は痛々しい。

彼女にとっては過程こそが大切であるはずなのに。

さて、ドラマ版を見てみようか。

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第十三回 沖で待つ

沖で待つ

絲山秋子/文藝春秋

作品を100%信頼すると言うのが正しい読者としての在り方だというのが持論である。

作品テーマから汲み取れる作者哲学や主人公の貫徹行動に表れるメッセージを手放しで受け入れると言う意味ではない。文章にされている一言一句を、句読点の打ち方にいたるまですべてに意図して創作されたものとして真剣に向き合うという意味だ。

無駄な文字など一つもない。隅から隅まで神経をいきわたらせている。そうしてこそ淀みのない文章リズムがうまれる。

だから裏切られたときには支払った本代とともに酷評の仕打ちを与えてやるのだが。

芥川賞を受賞したくらいなのだからありふれた他愛もない話と感じてしまうのは、僕が読み手として未熟だからだろう。そういうことにしておくのが読者の礼儀である。「つまらない」というのはあまりに子供じみている。

 さて、信頼して読みすすめれば「沖で待つ」とは太が及川を待っているといのがわかる。そこだけ文章が異質だからだ。シーカヤックの話も無意味に及川に話したのではないだろうし。

 そのようなほのかな恋愛小説である。

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第十二回 アサッテの人

アサッテの人

諏訪哲史 / 講談社

『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!マサルさん』という漫画がある。二十代男性ならかなりの人が知っているかと思う。かつて週間少年ジャンプに連載されていたギャグ漫画だ。主人公の高校生マサルが、彼の荒唐無稽な世界観についていけない周囲のキャラクターを理解不能な言動と超人的能力で煙に巻くスタイルの漫画だ。

「マサルっぽい」。これが僕の初見での感想であった。

「タポンテュー!」

食事中にいきなりそのような発言をするのはいかにもマサルらしい。

「タポンテューって何さー?」となるのがマサルのパターンなのである。マサルこそ“アサッテ”男なのである。

あるいは『羊をめぐる冒険』にでてきた“いとみみず宇宙”にも近い。 

この小説では作者(諏訪)の叔父がアサッテ男である。叔父の日記を並べながら、それに小説の書き手である諏訪哲史がなんらかのコメントをしていく。そして「叔父が主人公の小説を書こうと思ったんだが、荒唐無稽すぎるのでやはり書けない。いろいろと試みてはみたが誰も理解できないだろう。」ということに落ち着いている。ある種の上位概念を取り入れた構成になっている。

また細かなエピソードを一見無作為に並べるやりかたは『風の歌を聴け』に似ている。

「いつから方法論の文学賞になったんだ、芥川賞は」と辟易しながら読んでいた。

しかし『グランド・フィナーレ』の例もあるので、もう少し我慢して読んでみようとページをめくると、徐々に普通の小説になっていった。(こういうのはやってんのか)

後半は、マサル的言動=「アサッテ」がうまれた経緯を叔父の日記をもとに解明していくという話になる。

叔父は生来の吃音により自己表現を剥奪された青春時代を送ってきた。しかし吃音がなおった後にはコミュニケーションの制約に苦しめられることになった。

制約は意思の疎通のための交通整理みたいなものだ。語彙を軸に組み立て、文脈や文法で滑らかにするのがコミュニケーションなのだが、長い間封じられていたせいで万能性を求めてしまっている。便利であるはずのルールを疎ましく感じている。

絶望して、縛られないことがしたい、となかば強迫的に思うようになったというのだ。「気が狂った」とは少し趣をことにする。表現の利便性と限界。機動戦士ガンダムのニュータイプ論のようにもとれるな主題である。

方法論は新しい。

内容は古い(アサッテ、細切れエピソード、ニュータイプ)

構成力はお見事である。

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第十一回 グランド・フィナーレ

グランド・フィナーレ

阿部和重 / 講談社

前半と後半に分けられた本作品。ただ単に分けられているのではない。きちんとした構成に基づいたものである。そして前半と後半の断面は、この小説の重要なポイントでもある。 

前半。定まらない文体や作為的な句読点の打ち方が不協和音然とひびいている。国語の教科書には絶対に載らない文章だが、これはそのまま主人公の心の不安定さを描写している結果である。文体自体をこれほど高度な描写として用いた小説はそうあるまい。芥川賞に選ばれた要因はここにあるのではないか。

小児性愛者である自分に対する嫌悪と居直り。中途半端な年齢がもたらす若さへ自負と老いの実感。溺愛する娘との対面への期待と諦観。相反する状況心理が入り乱れ、ジレンマは昇華を迎えることなく混沌さを保っている。鬱屈した心理を文体で表現しているのだ。 

一転して後半はごく一般的な文体。

主人公の心境や境遇の大きな変化後ということで迎えた後半。主人公はすべてを失ったことで、逆に平静さを取り戻している。

勿忘草(わすれなぐさ)にたくした生死物語は古典的であるが、前半の錯乱気味の文章と主人公の変態キャラクターが緊張感を絶やさない。

主人公にしてみればこの後半はおまけみたいなものだ。前半ですべてを失っていることからみても前半こそが「グランド・フィナーレ」であり、後半は「その後の世界」をえがいたもの。

一方これから“フィナーレ”= 勿忘草=死をむかえようとする女児二人。「その後の世界」に生きる主人公と厭世的な二人の交錯を描くことで“フィナーレ”の是非を問うている。

残された者は痛みに苦しみながらも、過去を背負い生き続けなくてはならない。グランド・フィナーレを迎えた後もずっと。

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特別回 読書がもたらす美容効果。夏への個人的嫌悪感と鬼灯の行き先。いいわけ少々、次回へ活かせない反省。139の由来。

 読書には美容効果がある。僕はそう思う。

 作家からの提示に対して、考え、答えを出す。そうした一連の流れは心の働きを豊かにするための訓練です。事象への深い洞察は情緒を育み、創造性を備えた精神として磨かれる。これこそ情操教育というものでしょう。

 心的な要因は直接体へ物理的な影響を与える。実際に姿形を変えてしまうこともある。ストレスによって胃に穴が開くのと、ベクトルは違えどメカニズムは同じでしょう。やっぱ性格などの内部要素は顔に表れるんですね。

 考えるほどに精神は豊かに、比例して表情は引き締まる。瞳の持つ説得力、凛然とした気品と洗練された思考。個性ってそういうもんでしょ。最高のアクセサリーじゃん?

 だから完全に娯楽として読んではいけないんですね。「共感できるしぃ」ではだめでしょうな。すでに知っていることをなぞっていたんじゃ、考えたことにはならないから。面白い、つまらない、感動した、のではなく、なぜ、なぜ、なぜと追求していく類の思考訓練でこそ脂肪は燃焼する。感想文でも書けばなおいい。

 社会人の方々が学生を見て「若い」と思うのではなく「幼い」と感じるのは、化粧のテクニックではなく、自分や社会に対してどれくらい真剣に考えているかの差が表情に出ちゃっているのでしょう。

 全国のおしゃれ自慢が美容にどれくらいの労力を費やしているかは、ファッション雑誌の発行部数や化粧品コマーシャルの多さ、挙句美容師をカリスマなんて言っちゃう風習からなんとなく想像がつく。それはそれでいい。しかしファッションの画竜点睛は心的要因にこそあるのではないか。心を鍛えないのは瞳のない竜さながらである。

 今年の秋には小説の一遍でも読んでぜひとも美人に、失礼、より美人になりましょう。

 あまり小説に興味のない人へ。これまで取り上げた十作のなかから一作選ぶのなら……

『ノルウェイの森』

 この作品ってみんな読んでるんですよ。他人との話題にも上りやすいので、社交上もよろしいかと。

『青梅雨』

 時間がない人向け。たった20ページだから。手に入りにくいなら、図書館の全集で。

『容疑者Xの献身』

 娯楽要素が強い。できるだけ手軽に読みたい人向け。

 こんなところでしょうか。

 去りゆく夏。

 夏は嫌いではない。殺傷能力のある暑さも情緒のうち、夏の要素だもの。不都合こそが風物詩だったりするんですよね。市井の人々の創意工夫が小さな文化を形成する。打ち水、風鈴、怪談に辛い料理。季節のものはやっぱり美しい。雪月花とはよくいったものです。(僕は日本三景も三名園もすべて行った事あるけど、いずれも夏なんだよなあ)

 嫌いなところは他の部分。道行く金髪である。彼奴ら道に唾を吐くじゃん、このやろう。まあ一年中吐いているんだけど、とくに夏は肌の露出とあいまって許しがたい。チャラチャラ指数が冬よりも数段上だと感じてしまう。チャラチャラ自体はいいけど、マナーの悪いのは本当にダサい。

 これから寒くなるにつれて、アスファルトにへばりつく腐臭漂う大罪もちょっとは我慢できる。

 ところで夏が終わると、神楽坂通り沿いの店の軒先にある鬼灯はどこへ消えていくのだろう。冬のうちに枯れちゃうのかな。毎年ほおずき市やってるんだから、毎年買ってもらわないといけないからねえ。

 いいわけ。

 このブログ、「俺はこのように読むけど、あんたならどう」という趣旨なんです。一度読んだことのある人に向けて書いていた。だけどあまりネタばらししちゃうと初読の人への配慮が足りないかなあって思って、結末やキーポイントになる箇所には触れないように書くことにしました。結果的にどっちつかずの意味不明な文章になってしまった。

 これに関しては決着がつかない。当分のあいだ今のままで、仕方ないですね。文体が一定しないのも仕方ないがや。

 139の由来はまたいつか。

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第十回 忍ぶ川

第十回 忍ぶ川 

忍ぶ川

三浦哲郎/新潮文庫

志乃萌え~

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第九回 早すぎる埋葬

モルグ街の殺人事件

エドガー・ポー(佐々木直次郎訳)/ 新潮文庫

 仮死状態のまま埋葬され、地中の棺の中で蘇る恐怖をつづった作品。これがぜんぜん怖くないんです。閉所恐怖症、暗所恐怖症(ところで ~恐怖症って安易に使いすぎ。医師の診断を受けた本物の不安障害の人へ誤解を与えそう)の人には背筋の凍りつく設定なんだろうけど、火葬が一般化し医学進歩の著しい現代に生きている日本人に本能的恐怖を与えるのは難しい。さらにリアリティがない。早すぎる埋葬、確かにおぞましいことだろうけど、受験戦争の勝利者たる医師の診断のほうが信頼に値するでしょう。 要はバックボーンがないんです。時代と地域慣習の差が作品価値を決定的におとしめてしまっている。「うん?怖い、よな?」と一拍考えさせてしまうようじゃ臨場感を欠く。死に至る経緯を心理描写で埋める作品と違い、読者に考えさせてしまっては恐怖感を与えられない。 火葬炉のなかで目覚めるのなら、恐怖小説としては瞬発力もあっておもしろくなりそうだけど。  とはいえ死自体に対する恐怖は生物なら基本的に備えているわけで、このあたり主人公の強迫は、理解できる。死と眠りの不確かな結合。僕も小学生の頃に死をはじめて知覚したとき眠るのが怖かった。眠りと死との不鮮明な境界線、自分の制御外にあり常に受身でしかいられない気持ちの悪さ。抵抗の剥奪。 この小学生の悩みは人類共通であるらしく、遠くギリシア神話でもヒュプノス(眠りの神)とタナトス(死の神)は連れ立って現世にあらわれる。まずはヒュプノスが眠らせて、しかる後にタナトスが冥府へとつれていくのだ。また眠ることは死の訓練だと語った学者もいる。 怪談はねむらないように、恐怖を煽るものだったりして。  まあ、日本人には『青梅雨』の方が怖いです。 

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