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2008年2月

二月二十二日 梅の悲劇

梅鑑賞が盛んではないのは寒い季節に咲く花だから。

コートを脱ぎながらふと思った。

このように観察する余裕が生まれる程度には寒さは緩和した。

伸びた日も、安心したように温かみを増している。

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機動戦士ガンダム‐逆襲のシャア‐

機動戦士ガンダム‐逆襲のシャア‐

富野由悠季

『機動戦士ガンダム‐逆襲のシャア‐』を久しぶりに観た。

あいかわらず、というか、やはり、というか富野由悠季は作品の組み立てが下手である。素材やテーマ、キャラクターの魅力、スピード感、描写はいいのに、実にもったいない。

描写力という点で言えば、ケーラを人質にとったギュネイがアムロを脅迫する場面。このシーンは実によくできている。アムロといえば歴戦の最強パイロットなのであるが、もとはネクラで臆病なメカオタク。このオタクの神経質な防衛本能が、結果味方を殺してしまう。フィン・ファンネルの過敏な反応が、アムロの奥底に淀んでいる臆病さをうまく表現しているのだ。

またこの場面はアムロの深層心理の妙を簡潔に描写するにとどまらない。本作の焦点であるサイコ・フレームの重要性、νガンダムの性能も同時に表現しているのである。

というようなうまさの反面、戦記ものに不可欠な大局的側面を語る能力が決定的に欠落している。そのせいで舞台の全体像がまるでみえない。説明がへたくそなのである。というか説明を省略している。説明を一切しないで見せることができれば格好いいのは確かだが、それはほとんど不可能に近く、もちろん富野にもそんな技術は無い。格好付けると「わかりやすさ」という代償を払うことになる。

結果、登場人物がその時、何をなんのためにやっているのかはっきりと見えてこないのである。ぼんやりとしかわからない。戦争という大きな海原がどのように形作られているか。時系列のなかでどのような特異性をもっているのか。まるきりわからない。個人的事情という波はよくみえる。感情の変化にともない波打つ様は、まあ伝わる。しかしどこで波打っているのか、その波はどこへ行くのか、また波は海原にとってどんな意義があるのかさっぱりわからない。波自体はわかるがそれより外へ出て行かない。これでは、宇宙という限りなき空間への推挙を図るニュータイプ論はむなしく響くばかりである。

これはつくりが雑ということかもしれない。商業主義に走らざるをえなくなったしがらみがもたらした歪みなのかもしれない。

さて、台詞回しはまたまた下手だが、印象的な台詞はやはり登場する。

今作の名台詞。

「アムロ、あんたちょっとセコイよ」

byクェス・パラヤ

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二月二十日 効果音の妙

スーパーマリオのジャンプの効果音はすごい。またとても画に合っている。

そもそも、ジャンプをすると音が出るという発送はなかなか得られるもんじゃない。

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二月十九日 ファッションの延長線、ひいては自我の拡張 つづき

本来自分の内部にある自我は発する言葉や物腰に表れるのだが、服飾の形をとることもあるだろう。興味、好みの差によって。

これはインテリアにもいえる。本当にお洒落なら自分の手の届く範囲すべてに好みの新党を試みるはずだ。そうでなきゃ我慢できないはずだ。身につけるものだけ凝って、部屋は無関心など美学が許すまい。

お洒落か否かはファッションよりも部屋をみたほうが早い気がする。

……最近インテリアを充実させようと思っていて、と書こうとしたら上記のような嫌味になってしまった。ちなみに僕はちっともお洒落じゃありません。ボトムの意味もオム意味もわかりません。

もうつづきは書きません。

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二月十八日 ファッションの延長線、ひいては自我の拡張

「ただなんとなく」流行雑誌に載っている洋服や小物を選び身につけ喜んでいる人々(このトップス超カワイイの)は決してお洒落ではないはずだ。ファッションリーダーを自覚されたんじゃ勇み足もいいところである。「なんとなく自己満足」というのなら健康で文化的な日常のほほえましい享受といえよう。まっとうな価値観だ。

服飾には本来的目的からくる機能性と美術的ファッション性が学問的考察を孕みつつ渦巻いており、さらには時代や地域、季節、つまり適所のニーズが紆余曲折の果てに絶妙のバランスで成り立っているのである。

お洒落という称号を手にするには修行が必要であるはずだ。純化してとらえれば、芸術感を備えたあらゆる分野において経済性は排斥されるのだから売れる売れないは無関係。

dakarane,sonnani,muzukasiku,kangaerunayo.

そりゃ無理だ。

最近インテリアを充実させようと思っていて、と書こうとしたら上記のような嫌味になってしまった。

つづく

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二月十七日 IKEAふたたび

机と壁のあいだに空間があって、このスペースを有効活用しようと思いIKEAへと赴く。

机と同じ高さの棚を探したが見つからず。そして机コーナーにさしかかり数々の机を目の当たりにして気づく。

「まてよ、スペースにすっぽりと入る机を買うほうが早いんじゃないの」

はい作戦練り直し。
というわけで今回は小物を中心に購入。Photo

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二月十六日 酒におぼれた革命家

横浜駅で革命家が一人演説していた。

「もっとにこやかに、素直にあるけねえのかよ。」

句読点の間に「ウィ~」とか「ヒック」とか混じっているのは当局の目をくらますためのカモフラージュだろう。右手に握り締めた発泡酒もしかり。駅構内を急ぐ不特定多数の人々にたいして訴えかけるというのはなかなか勇気ある行為だ。世を憂いてのことであろう。僕は一応は耳をかたむけてやる。

こうした連中を僕は革命家と呼んでいる。無差別攻撃は革命家にふさわしい。

しかし実のところ彼らの言葉には口数ほどの意味は無い。目的は何かしらの言葉を発することであり、世の中を変えるということではないのだろう。にこやかに歩く、というのは想像がつくが、素直に歩くとはどういうことだろう。その説明が無いのがいい例だ。そして致命的に行動力が無い。昼間からアルコールじゃ説得力も無い。

革命家は日中の駅によくあらわれる。実のところどういう人たちなのだろう。社会的には立派な大人と言うわけではあるまい(あくまで“社会的”に)。年金すら払っていないようには見える。思想的理由からではなく、経済的理由から。単なる酔っ払いなのだろうか。

だとしたらがっかりである。純粋さゆえに全共闘時代に取り残された、悲運の闘士というようなロマンティックな何かを期待しているのに。

「前歯が三本無いのは、安田講堂で警官に殴られたからさ」

くらいの武勇伝を熱く語ってほしいものである。

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二月十五日 最高の文学

ファイナルファンタジーXⅢが動きはじめて久しいが、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』みたいな構成なんじゃないのか、と予測している。この予測が正しいとするなら、期待は薄だな。ゲーム業界のシナリオライターと村上春樹とを比較するのも酷な話。まあPS3なんて当分買わんがね。

『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は僕の知る限り20世紀文学の最高傑作だ。読書家というわけではないからあまりアテにはならんが。

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二月十四日 携帯電話

「えっ、アンテナついてるの?」最近言われる。
7年程前には
「えっ、ショートメールつかってるの?」
と驚かれた。
次はなんだろう。
って5万円も払って携帯電話買いかえるのはどんな人たち?セレブって呼ばれる人たちですか?

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二月十三日 回し飲み 続き

はじめて聞いた言葉だった。

「マワシノミ?一体何なんだろう。“しようぜ”ってことは“一緒にやろう”ってことだろ。僕もそのメンバーに入っているのだろうか。いやだよ変なことに巻き込まれるのは。早く家に帰ってドラゴンボール観なきゃいけないんだから。」

かめはめ波が脳裏をよぎりつつも、「マワシノミ」のインワイな響きに思わず身構えた。

自転車をこぎながら、先輩がグビとコーラを流し込んだ。そして隣を走っている太田君に缶を渡した。「ああなるほど。回して飲むってことか」と気づいた。同時にこの回し飲みに対する抵抗感があらわれた。はっきりいって嫌だった。

僕は潔癖症ではないし、当時は地面に落ちたうまい棒も平気で口に入れていたけど、回し飲みは嫌だと感じた。それに奢ってもらうというのも好きじゃなかった。今でもそうだ。遠慮してしまうのだ。遠慮してちゃ気持ちよく飲めないじゃないか。

しかしその場の回し飲みを受け入れるていどの社交性は備えていた。先輩の言った回し飲みには「兄弟で杯を交わす」といったような絆を深め合う儀式然とした何かが含まれているように思った。怖い先輩とか逆らえない先輩とかいうのではない。どちらかというと弱弱しく、みんなで庇ってあげなきゃいけないようなタイプの人だった。そんな先輩の好意を断ることはできなかった。ただの格好付けかもしれないが理解できる範囲の行動だろう。

夜7時頃だったから飲む振りをすればよかったんだが、きちんと飲んだ。当時は真面目な性格だったのである。

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二月十二日 回し飲み

求道館という名の剣道道場に通っていた。五年生の終わりに遠く他県に引っ越すまでの3年間皆勤賞で通い続けた。

転校に関してはいろいろ学ぶことがあった。たとえば、“まさかと思うことが自分の身に降りかかる”ことを覚えたのもこの転校という事件からだった。世界は自分を守るようにはできていない。

まあいい。今回は転校の話じゃない。回し飲みの話だ。

稽古には自転車で通っていた。道着と袴姿で15分の道のりを6段変速を鮮やかに使い分けてしゃこしゃこ往復していた。

ある日のこと、稽古を終えて帰るしゃこしゃこ軍団に先輩がまぎれていた。先輩といっても普段は顔をあわせない人で「この人学年が上の人だ」という認識のみがあったにすぎない。高学年と中学年とでは稽古の時間帯が違っていたから、おそらく稽古納めの日などの、道場に通う全員が一堂に会す特別な日だったのだろう。

その先輩がコーラを買うと言い出した。小学生が小遣いもって道場に通うなんてあまり考えられない。少なくとも僕は持っていなかった。稽古終わりのコーラが習慣なのか、先輩風を吹かしたくて仕込んできたのか今となってはわからないが、宣言どおりに100円玉1枚でコーラを買った。

そして「回し飲みしようぜ」と言った。

つづく

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二月十一日 仕事の話

久しぶりに友人と会ったときも、ついつい仕事に関することを話してしまう。油断をするとこれに終始することすらあり。

しばらくは近況報告という形で互いの時間を埋め合わせるのだから、いくらかは仕方ないが、それだけじゃねえだろう自分よ。

少なくとも子供の頃はそんな大人になりたいと思っていなかったはずだ。仕事に誇りをもったり、上昇志向を携え見知った友人から刺激を得るのは無論すばらしいことだが、そのせいで視野を狭めてしまうのはいただけない。

今度誰かに会うときは「仕事の話は禁止」とのルールをもうけてみようか。

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二月十日 雪

雪月花、の雪。

地方による捉え方はさぞさまざまだろう。

雪害激しい北国では、季節を華やかに彩るロマンティクなアイテムになるはずも無く、生活直撃のいまいましいH2Oにすぎないのだろう。

小学校の社会の時間に見知った、日本各地の地方色豊かな光景は、切実なんだね。

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二月九日 霜柱

幾つになっても霜柱を踏みたくなる。

これって黒板を爪で引っかく音が混じってるよね。短くキュって鳴る。

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二月八日 堅雪

関東地方ではいつだって堅雪。降った翌日には、溶けた雪で路面が凍っている。

転んで怪我する。死者もでる。はいはいフテキセツ発言。

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二月七日 淡雪

関東地方南部では積もったとしても所詮は淡雪。すぐに溶けてしまう。

土のついた雪だるまがぶかっこうに放置されている。

記憶をたどれば雪にはしゃいだ姿が蘇る。

高校くらいまでは

「雪だるまつくってみようか。雪合戦しようか。今ならカマクラをつくれるんじゃないか。よっしゃ、カマクラデビューするぞ今年は。子供の頃は作れなかったけどもう高校生だからいけるだろ。コーラとファンタで乾杯だ」

などと機をうかがっていた。

現在。積雪2センチで止まる電車に冷笑で対抗している。

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二月六日 ハーチムマイマイ

はいはい、ギニョール。

もちろん演技ですよ。

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二月五日 足元が冷えるんです

ヒョウ柄ですあったかいです。

Photo

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第十一回 グランド・フィナーレ

グランド・フィナーレ

阿部和重 / 講談社

前半と後半に分けられた本作品。ただ単に分けられているのではない。きちんとした構成に基づいたものである。そして前半と後半の断面は、この小説の重要なポイントでもある。 

前半。定まらない文体や作為的な句読点の打ち方が不協和音然とひびいている。国語の教科書には絶対に載らない文章だが、これはそのまま主人公の心の不安定さを描写している結果である。文体自体をこれほど高度な描写として用いた小説はそうあるまい。芥川賞に選ばれた要因はここにあるのではないか。

小児性愛者である自分に対する嫌悪と居直り。中途半端な年齢がもたらす若さへ自負と老いの実感。溺愛する娘との対面への期待と諦観。相反する状況心理が入り乱れ、ジレンマは昇華を迎えることなく混沌さを保っている。鬱屈した心理を文体で表現しているのだ。 

一転して後半はごく一般的な文体。

主人公の心境や境遇の大きな変化後ということで迎えた後半。主人公はすべてを失ったことで、逆に平静さを取り戻している。

勿忘草(わすれなぐさ)にたくした生死物語は古典的であるが、前半の錯乱気味の文章と主人公の変態キャラクターが緊張感を絶やさない。

主人公にしてみればこの後半はおまけみたいなものだ。前半ですべてを失っていることからみても前半こそが「グランド・フィナーレ」であり、後半は「その後の世界」をえがいたもの。

一方これから“フィナーレ”= 勿忘草=死をむかえようとする女児二人。「その後の世界」に生きる主人公と厭世的な二人の交錯を描くことで“フィナーレ”の是非を問うている。

残された者は痛みに苦しみながらも、過去を背負い生き続けなくてはならない。グランド・フィナーレを迎えた後もずっと。

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二月三日 節分に大雪じゃ存在価値ないよね

節分とはもともと季節の始まりの前日のこと。季節のはじまりとはすなわち、立春、立夏、立秋、立冬でそれぞれ二月四日、五月六日、八月七日、十一月七日である。現代の節目とは大きく異なっている。現代なら一月一日とか四月一日とか九月一日とか、一のつく日にちばかり。寒暖の差が直接生活に影響した時代と比較して、システマチックになったわけだ。 

ちなみに春分、夏至、秋分、冬至は節分のほぼ真ん中に位置する。

なんで二月三日だけが生き残ったのかはわからないが、節分の行事ははっきりいってヘンである。鬼は外福、は内と叫びながら豆を撒くという、よくよく考えてみると奇行じみた意味不明なイベントではないか。

あれ、今年は閏年?なら節分は二月四日か。

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二月 第一週

ジョギングに張り合いが出そうである。

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一月

2008年最初の月は、だらけてしまった。小説すら一冊も読まなかった。酒もあまりおいしく飲めなかった。悪循環というやつか。

言い訳はいくらでもできるが、こういうのは不都合があってもじっと忍ぶのがポイントである。

食事、運動、精神研磨、ライフワーク、遊び。

二月に入る。

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一月三十一日 共通点はストーリー

小説漫画映画テレビドラマ絵本エッセイアニメーション絵物語神話民間伝承小話ラジオドラマ等等。共通点はストーリーである。

ストーリーそれ自体で作品が成り立つことはありえない。小説なら文章による描写という特性がストーリーにうまく絡まないといけないし、映画では役者の演技にはじまりカメラワークや照明などさまざまな要素がシナリオにマッチしていないといけない。

とはいってもやはり作品を楽しめるかどうかはストーリーによって八割方決まるであろう。

さてロールプレイングゲームである。僕はこれをゲームというよりストーリー=物語として位置づけている。自らのプレイスタイルをシナリオ堪能型、と名づけている。

シナリオを堪能するにはキャラクターの個性がイベントだけではなく戦闘場面でも発揮されていないといけない。強すぎると興ざめだし、弱すぎてはクリアできない。ゲームを楽しもうと思うとなにかとバランスが難しいのである。

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