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第三回 太陽の季節

太陽の季節
石原慎太郎/新潮文庫

 僕の勤め先が逗子にあるということで、逗子が舞台の小説など取り上げてみようかなと思いまして、まあ、逗子といったら『太陽の季節』をおいて他にないですよね。
 発表されたのは昭和30年。当時はすごい衝撃があったみたいですが今では古典といっていいような内容です。発表後今日にいたるまでの50年間あらゆる文化がこの小説の影響を受けたのでしょう。

 文壇ではリアリズム小説として扱われています。戦後になって若者も変わった。これが新しい時代の若者か。いや「もはや戦後ではない」ってところでしょうか。しかしね、この小説はちっともリアルじゃありません。私小説風に書いているからといって騙されてはいけない。80年代後半から90年代にかけて横行したトレンディドラマよりなおリアリティがない。
 主人公たちはいわゆる不良です(ツッパリと言ったほうが似合いますが)。不良だから軽々しく暴力を振るう。そして子供です。精神的に幼い。徹底して利己的、気まぐれ。
 とここまでならたいしてリアリティを損なうことはありません。体は大人でも精神はガキのまんま、なんて特に女性の方で頭を悩ませ続けている人も多いのではないでしょうか。何であの男はあんなにガキっぽいんだと。
 ところが主人公グループはそろって金持ちなのですよ。それも並みの金持ちじゃありません。夏にはヨットやクルーザーでナンパをし、別荘で一夜限りの恋を繰り返す。考えられません。昭和30年ですよ。現代でもごく少数でしょう。ここまでの金持ちなら女性陣の「恋人が、あるいは近くにいる男どもがガキっぽい」なんて悩みはささいなことに成り下がりますよね。
 僕なんて450円のワインとジンで朝まで友人と青臭い哲学談義に耽る70年代のような学生生活でしたよ。発泡酒に決して手を出さなかったのはささやかなる抵抗といえよう。

 クルーザーや別荘は小道具にすぎずこの作品がリアルというのはあくまで若者の心理である。ってことなんでしょうか。いや、いくらなんでもガキすぎます。

 この小説の面白いところは戦後日本の若者のリアルな実態ではありません。視点のバランスなんです。主人公である龍哉とヒロインの英子の視点を交互に繰り返しながら作品世界を語っていく形式ですが、実は龍哉の兄である道久というフィルターを通して書かれているように僕は思います。なぜなら青春小説であるにもかかわらず共感を求めた書き方をしていないからです。主人公を悪役風に書いている。節々で咎立てているんです。さらに道久が登場人物の中では浮いています。道久も決して好人物というわけではありませんが、確実に一線をひいている。常識人としての節制がある。

 龍哉のモデルは慎太郎の弟、裕次郎でしょうね。真面目な学生として己が道に誇りをもって生きる石原慎太郎の、一方で隠しきれない奔放な弟への憧憬。そうした願望が小説という形をとって世に生まれ出たのだと、そう結論付けておきます。

(
この記事の冒頭の文章は『楢山節考』を意識してるんですよ)

もちろん映画化済みだし、最近連続ドラマ化もしたんだってね。なので妄想キャスティングは省略。

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