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2007年12月

100万回生きたねこ

100万回生きたねこ

佐野洋子 /  講談社

「恐いものは何?」

と聞かれたことがある。即答した。死ぬことだと。

死を意識した最初の瞬間を覚えている。小学校一年生のころ『ポセイドンアドベンチャー』という映画を観た時だ。作中では人がいともたやすく死んでいった。死ぬことが当たり前で、生きていることが奇跡だといえた。小さな僕の世界とは反対の事態が繰り広げられていたが、一方でそれが自分にも起こりえる出来事だと認識することもできた。日常が簡単に奪われ、意識することすら許されぬ暗黒の世界への恐怖心があった。なかなか寝付けずに布団から眺めた天井がやけに遠くに見え、世界に1人残された気分だった。

以来、その恐怖心から逃れることができずにいる。僕は死に喰われている。

しかし戦う手段は残されているように思う。強がってみせたり、大きな目標を掲げて夢中で邁進したり、宗教に走るのもいい。あるいは諦められるならそれが一番楽かもしれない。

 ねこは不死身だった。たとえ死んでも生き返る特殊な能力を備えていた。その能力はあらゆる生物の羨望を集め、ねこ自身もそれを自覚していた。自分こそが選ばれた存在だとの理解があった。半面社会的視野に乏しかった。自分にしか興味なく、瞳に映る世界に価値などなかった。

 しろねこに出会い、愛情というはかない感情に出会った。平凡な感情だった。ねこにまるで似つかわしくないありふれた感情は、だけど幸福な毎日を用意し、不死の力を奪った。

 愛する者のための限定された生。戦う手段のうちもっとも王道であるべき道。

 ねこには選択権があったのかもしれない。だけど我らにはない。いつかかならず死ぬ。だからこそ愛する能力が備わっているのだと、そして愛情は100万回の生に優るのだと、預言者の復活や、輪廻や、あらゆる超常現象にも勝るものだと、それが製作意図だろう。

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おおきな木

おおきな木

シエル・シルヴァスタイン(ほんだ きんいちろう やく)/ 篠崎書林

 本をまったく読まない幼少時代でした。文字を読むという行為が面倒で仕方なく、面倒であるがゆえ感情移入できず、よって決定的につまらない。話は仮面ライダーやウルトラマンなんかにくらべると地味で、少年には退屈な代物。変身ベルトを腰に巻いてポーズをキメる方がお気に召したのでしょう。

 それでも家にはいくつかの絵本があって、雨の日などにたいした興味もなくページをめくっていました。

 妙に引き付けられた、記憶に残っているものがあります。『おおきな木』はその一つです。唯一といってもいい。子供の頃から割りと多く引越しをしていたせいでその度に荷物が減らされるなかこの絵本は残り続けました。

 子供は自分が子供であることを認識している。その上で駄々こねたり泣いたりする。子供の特権が結局は何もかも解決することを悟っており、同時に知ってはいけないことがあることも理解している。人間の暗い側面を知るにはまだ早いと懸念しつつ、年齢を重ねるごとに大人の領域を拡げていく感がある。僕はこの絵本を読んで「子供にこんな話を読ませていいのか。大丈夫かよ文部省」と思っていました。しかしページをめくらずにはいられなかった。この絵本には目を背けてはならないと思わせる吸引力があるんです。

 悲しい話です。メインの二人(?)の関係があまりに一方的過ぎる。対等じゃない関係というのはどこかいびつで、そのいびつさを埋めるだけの要素が感動の軸になっていくのだけれども、読書嫌いの子供にそうした描写を読み取る力などあるはずもなく、煮えきらない不可思議な感情がずっとはびこったままでした。

 いびつさを埋める要素が親子愛だということに気づいたのはずっと後、大学に入ってからです。

 身を削る木、まさに人生そのものを分け与える痛みが、視覚から分かるようになっているんですね。子供に大切なお金を、時間の対価を、人生の一部を惜しみなく供する親の情を感じさせます。

 寄り添う木とぼうや、ん?浮気に悩まされる貞淑な妻と夫にもみえてきた。

 いずれにせよ、無償の愛ってやつが主題でしょう。あ、僕は嫌いですよ、無償の愛。不毛だもん。受けるほうは感謝を忘れてはならないけど。

139

★友人の子にプレゼントしました。イルカ嫌いの男の子。読めるようになるのはまだ先のこと。

「書物をプレゼントするなんてお主なかなか気障よのう」

否定はしないが。

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はたらく青年

はたらく青年

原田宗典 / 中央公論社

【エッセー】〔essay〕随筆。随想。

 うむ、なるほど。なるほど?随筆ってなんだ?

【随筆】筆者の体験や見聞を題材に、感想をも交え記した文章。

 ははあ。要は日記みたいなものですな。

【随想】人生や社会の一断面について心に浮かんだ着想をテーマに、学問的な考察を加味してまとめた文章。

 おお?なんか仰仰しい。随筆とはまったく違う。何と言うか格が違う。随筆が言わば単なる感想文であるのに対し、随想は凄いじゃん、社会を斬り!人生を語る!それに何?学問的な考察しちゃうの?これと随筆をまとめてエッセーと呼ぶのは無理があるなあ。

【小説】〔ノベルの訳語〕散文による作品の一形態。作者の奔放な構成力によって構築された虚構の世界の中に登場する人物の言動や彼らをめぐる環境・風土の描写を通じ、人間の生き方や社会の在り方について作者の考えを強い感動や迫真性を持って読者に訴えようとするもの。

 ふぅ、やっぱ高尚だな。読者は筆者に敬意を払い読まなければなるまい。

【ノベル】〔novel(長編)小説。

 おい!小説がnovelの訳語でnovelの解説が小説ってそりゃあねえだろう。

 さて、『はたらく青年』はまぎれもなくエッセイだがかなり小説に近い、というか小説っぽい文章をしている。まるで連作短編のように時系列でまとめられています。主人公の成長には弁証法が息づいており、感動すら誘う。何より「描写」がある。

 で、描写ってのを簡単に(自分流に)説明するなら、“感情”を“行動”で表現するというところでしょうか。例えば、「どきどきした」という感情を「気がついたら手のひらに汗をかいていた」という行動で示す。センスが問われるんです。今あげた例は最低ですよね。使い古されてるから。

 小説というのは基本的に描写で構成されているんです。一度注意して読んでみてください。「感動した」なんて文言はほとんどないはずですよ。どのような思いを、どのような描写で表すことができるか、そこが作家の腕の見せ所でしょう。ストーリーや構成は映画や漫画にもあるけど、文章による描写は小説のみに存在する要素ですから。

 今日は小五月蠅いことはいいか。

 原田宗則のエッセイは面白いです。笑えます。はっきり言って、小説よりエッセイにこそ能力を発揮する作家です。本人もこの事態に頭抱えてそうですが、仕方ない。馬鹿になって読み散らかすのが正しい読み方でしょう。

 できるなら適量のアルコールと映画一本分の時間を用意してください。ほろ酔いで笑って、馬鹿にしてください。

 お勧めは……

『東京困惑日記』より「歯がイタイ」

『少年のオキテ』より「ケンベン困惑騒動」

『十七歳だった!』より「十七歳のファッション」

 金曜の夜にでも読めばウィークデイの悩みや失敗も自身の持ちネタに見えてくるほど、痛快です。 

 というわけで気持ちよく酔っております。今宵はウィスキートニックとカプレーゼ。

 だけど、一抹の切なさがあるんだよねえ。

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特別回 読書がもたらす美容効果。夏への個人的嫌悪感と鬼灯の行き先。いいわけ少々、次回へ活かせない反省。139の由来。

 読書には美容効果がある。僕はそう思う。

 作家からの提示に対して、考え、答えを出す。そうした一連の流れは心の働きを豊かにするための訓練です。事象への深い洞察は情緒を育み、創造性を備えた精神として磨かれる。これこそ情操教育というものでしょう。

 心的な要因は直接体へ物理的な影響を与える。実際に姿形を変えてしまうこともある。ストレスによって胃に穴が開くのと、ベクトルは違えどメカニズムは同じでしょう。やっぱ性格などの内部要素は顔に表れるんですね。

 考えるほどに精神は豊かに、比例して表情は引き締まる。瞳の持つ説得力、凛然とした気品と洗練された思考。個性ってそういうもんでしょ。最高のアクセサリーじゃん?

 だから完全に娯楽として読んではいけないんですね。「共感できるしぃ」ではだめでしょうな。すでに知っていることをなぞっていたんじゃ、考えたことにはならないから。面白い、つまらない、感動した、のではなく、なぜ、なぜ、なぜと追求していく類の思考訓練でこそ脂肪は燃焼する。感想文でも書けばなおいい。

 社会人の方々が学生を見て「若い」と思うのではなく「幼い」と感じるのは、化粧のテクニックではなく、自分や社会に対してどれくらい真剣に考えているかの差が表情に出ちゃっているのでしょう。

 全国のおしゃれ自慢が美容にどれくらいの労力を費やしているかは、ファッション雑誌の発行部数や化粧品コマーシャルの多さ、挙句美容師をカリスマなんて言っちゃう風習からなんとなく想像がつく。それはそれでいい。しかしファッションの画竜点睛は心的要因にこそあるのではないか。心を鍛えないのは瞳のない竜さながらである。

 今年の秋には小説の一遍でも読んでぜひとも美人に、失礼、より美人になりましょう。

 あまり小説に興味のない人へ。これまで取り上げた十作のなかから一作選ぶのなら……

『ノルウェイの森』

 この作品ってみんな読んでるんですよ。他人との話題にも上りやすいので、社交上もよろしいかと。

『青梅雨』

 時間がない人向け。たった20ページだから。手に入りにくいなら、図書館の全集で。

『容疑者Xの献身』

 娯楽要素が強い。できるだけ手軽に読みたい人向け。

 こんなところでしょうか。

 去りゆく夏。

 夏は嫌いではない。殺傷能力のある暑さも情緒のうち、夏の要素だもの。不都合こそが風物詩だったりするんですよね。市井の人々の創意工夫が小さな文化を形成する。打ち水、風鈴、怪談に辛い料理。季節のものはやっぱり美しい。雪月花とはよくいったものです。(僕は日本三景も三名園もすべて行った事あるけど、いずれも夏なんだよなあ)

 嫌いなところは他の部分。道行く金髪である。彼奴ら道に唾を吐くじゃん、このやろう。まあ一年中吐いているんだけど、とくに夏は肌の露出とあいまって許しがたい。チャラチャラ指数が冬よりも数段上だと感じてしまう。チャラチャラ自体はいいけど、マナーの悪いのは本当にダサい。

 これから寒くなるにつれて、アスファルトにへばりつく腐臭漂う大罪もちょっとは我慢できる。

 ところで夏が終わると、神楽坂通り沿いの店の軒先にある鬼灯はどこへ消えていくのだろう。冬のうちに枯れちゃうのかな。毎年ほおずき市やってるんだから、毎年買ってもらわないといけないからねえ。

 いいわけ。

 このブログ、「俺はこのように読むけど、あんたならどう」という趣旨なんです。一度読んだことのある人に向けて書いていた。だけどあまりネタばらししちゃうと初読の人への配慮が足りないかなあって思って、結末やキーポイントになる箇所には触れないように書くことにしました。結果的にどっちつかずの意味不明な文章になってしまった。

 これに関しては決着がつかない。当分のあいだ今のままで、仕方ないですね。文体が一定しないのも仕方ないがや。

 139の由来はまたいつか。

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第十回 忍ぶ川

第十回 忍ぶ川 

忍ぶ川

三浦哲郎/新潮文庫

志乃萌え~

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第九回 早すぎる埋葬

モルグ街の殺人事件

エドガー・ポー(佐々木直次郎訳)/ 新潮文庫

 仮死状態のまま埋葬され、地中の棺の中で蘇る恐怖をつづった作品。これがぜんぜん怖くないんです。閉所恐怖症、暗所恐怖症(ところで ~恐怖症って安易に使いすぎ。医師の診断を受けた本物の不安障害の人へ誤解を与えそう)の人には背筋の凍りつく設定なんだろうけど、火葬が一般化し医学進歩の著しい現代に生きている日本人に本能的恐怖を与えるのは難しい。さらにリアリティがない。早すぎる埋葬、確かにおぞましいことだろうけど、受験戦争の勝利者たる医師の診断のほうが信頼に値するでしょう。 要はバックボーンがないんです。時代と地域慣習の差が作品価値を決定的におとしめてしまっている。「うん?怖い、よな?」と一拍考えさせてしまうようじゃ臨場感を欠く。死に至る経緯を心理描写で埋める作品と違い、読者に考えさせてしまっては恐怖感を与えられない。 火葬炉のなかで目覚めるのなら、恐怖小説としては瞬発力もあっておもしろくなりそうだけど。  とはいえ死自体に対する恐怖は生物なら基本的に備えているわけで、このあたり主人公の強迫は、理解できる。死と眠りの不確かな結合。僕も小学生の頃に死をはじめて知覚したとき眠るのが怖かった。眠りと死との不鮮明な境界線、自分の制御外にあり常に受身でしかいられない気持ちの悪さ。抵抗の剥奪。 この小学生の悩みは人類共通であるらしく、遠くギリシア神話でもヒュプノス(眠りの神)とタナトス(死の神)は連れ立って現世にあらわれる。まずはヒュプノスが眠らせて、しかる後にタナトスが冥府へとつれていくのだ。また眠ることは死の訓練だと語った学者もいる。 怪談はねむらないように、恐怖を煽るものだったりして。  まあ、日本人には『青梅雨』の方が怖いです。 

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第八回 バルタザールの遍歴

バルタザールの遍歴

佐藤亜紀/文春文庫

【問い】

幼い王女。躾の行き届いた従者とやさしい乳母にこのうえなく丁重に育てられる。決しておごることはなく使用人をいたわり、金髪を汚しながら仕事を手伝う。捨てられた雑種犬の世話をするなど友愛精神にもあふれ、奴隷の子とも分け隔てなく接し、贅沢を好まない。弟が死去したときには一晩中傍で泣き続けた。

一方、奴隷の娘。八人兄弟の上から三人目。王女と比較して身につけているものの値段は0が八つくらい違うし、赤茶けた髪はまったく手入れがされていない。肌に染み込んだ垢の臭いが鼻孔を刺激する。だが気立ては王女と同様に心優しく兄弟思いである。

その二人の子が今、戦争の混乱により飢えている。辱めを受けた。殺された。さて、どちらの子がかわいそうか。

【答え】

同じ。

くだらない問いかけでしたね。まともな現代人なら誰もが持っている極めて常識的な価値判断でしょう。我々は社会的ステイタスによる差異によって、血縁によって、人種や性別によって人間を区別するのは愚かなことだと知っているはずです。価値観の違いなどではない。罪人の子が判事になってもいいわけだし、どこの馬の骨ともわからん貧困層の男が一流企業の社長令嬢と結婚したって、社長は怒ってはいけない。怒ったとしたらそれは人間しての良識を捨てたとことであり、サル以下だ。二度と人語を使うな。

「家柄と所持金によってのみ人間の価値が決定する」

と世界の中心で叫ぶのなら、まあ、可愛げもあるというものだが。

「お前、なんか必死じゃ~ん」

って言われそうだけど、親との対決の前に社長令嬢を連れて来てくれよ。

 閑話休題。

一つの肉体に共存する双子、バルタザールとメルヒオール。1900年代初頭のオーストリア。公爵家の跡取りが、夜毎の浪費とアルコールにより身を持ち崩す。急激な社会情勢の変化のために憂き目を見る上流階級の没落というのではない。貧困層の苛烈な労働が生み出した血税と、先代が築き上げた財産を資本とした完全なる自堕落さで。

貴族とはそういうものかもね。勤勉で意欲的、節度ある貴族というのは下品だなんて後ろ指されるのかも知れない。

ハプスブルク家に仕え、代々、東方の三賢人の名をつける家風には強烈な自負を感じる。バルタザールとメルヒオールが石榴に噛り付いたことにより一族の威厳は冥府へと転落してしまうのだが。

話の筋はトリッキーな設定と時代背景が妙にマッチしており、楽しい。

ただ、読んでいて感じるのはぜんぜんドラマチックじゃないということ。舞台、展開、登場人物、一晩に動く金の額は派手にもかかわらず、淡々と綴られている。主人公の手記という形式をとっているので作者(佐藤亜紀)はおさえて書いたのでしょう。なので、気分を無理やり盛り上げて読むといい。心中で

「バルタザールはどう思う?」

と問いかけてみるのもいい。

 

 現代。貴族制度は格差社会へ、書簡体は電車男へ、火田七瀬は家政婦じゃなくて派遣社員にはるはずで、姿を巧妙に変えながらも腐臭は漂っている。

 しかし、1000年変わらぬ本質に向かって賎民は笑顔を向けられる程度にマシなったのだと、僕は歴史に感謝する。

 そういう普遍的な小説ですよ、ファンタジーではありません。

★外国人役者なんて分かりません。

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第七回 容疑者Xの献身

容疑者Xの献身

東野圭吾/文芸春秋

 ずるいね。

 推理小説ってのはずるい。犯罪、謎掛け、ミスリード。興味をひかれるに決まっている。中毒性もある。江戸川乱歩賞が日本で一番難しい文学賞といわれるのもわかる気がします。

 加えて東野圭吾はミステリを叙情的に斬るのが上手い。特にこの『容疑者Xの献身』はジャンル分けが難しく、恋愛小説と推理小説がうまく溶け合っている。もう反則技。既成の枠を超えて成功した稀に見る作品といっていいと思います。

ただし描写力には乏しく、小説というよりはエッセイに近い文体。僕は小説の要素は描写にこそあると思っていて、芸能人なんかが書く「小説」は小説をきどったエッセイだと判断します。

 小説かエッセイか、すなわち描写については【第十一回『はたらく青年』原田宗則】で綴るとして、とにかくそんなわけで「読みやすい」作品に仕上がっています。

物語としては面白いが、文学作品としては辛い(直木賞相手によくいうよ)といわざるをえない。

 恋愛小説の定義が出会いや過程、形ある結末をべたべたべたべた書くことではないとして、登場人物の心理を鋭く映すものだとして、この小説はまっとうな恋愛小説です。それでいて推理小説の殺伐さに悪影響を微塵も与えていない。すべてがうまく融合しているんです。主人公石神のキャラクターはトリックに反映されており―本文中でいうところの、単純だが目先をかえることによって一気に複雑にさせるトリック―単純であるがゆえに叙情性を妨げず、恋愛小説としても成り立つのです。また初心な恋心の見せ方もうまい。究極に硬派だと思う。石神を見てストーカーだという輩は物語の読み方を知らないか、性格が歪むほどの悲惨な過去を背負った人だと思う。ご愁傷様。

 天才の犯したミスは恋心と友情、人の心のやさしさと脆さ。こうした古典的な手法も安心感があって心地よく作用する。

 人の心が数式を乱し、天才を翻弄したというところに作者の人間性を感じます。

 理系の天才二人(石神と湯川)が―といってもイチローと松井くらいの差があるわけだが―友情を確かめ合いながら才能を比べあう。スタイリッシュな頭脳が格好いい。二人の間でかわす数学についてのやり取りをみていると、哲学は自然科学の中にこそ真の姿を現すのでないかと感じてしまう。

機能美>造形美

という数式を付き付けられるような気分になります。

 数学勉強しときゃよかったなあ。理系人間が読んだらどう感じるのだろう?

 東野圭吾は自作を映像化することに抵抗はないようで、これまでも数多くなされている。この『容疑者Xの献身』も話題性や受賞暦を考えると各方面放っておかないでしょう。映像化に綻びが生じるタイプでもないし。

★石神哲哉は絶対に田山涼成が演じるべきである。

そういえば『錦繡』が舞台化される。書簡体を視覚化するかねえ。電車男が現代の書簡体といえなくもないけど。あれが小説であるかは、まあ、語るべくもないか。

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第六回 蒲団

蒲団

田山花袋 

 自然主義の先駆け、ひいては私小説を確立させた作品だろう。確かに恥ずかしい。他人の不幸が蜜の味なら、他人の恥もまた甘い。しかし「お前も好きなんだろう」と言われてみてはなかなか嫌いとは言い切れないのじゃないか。

 素材に匂いをもってきたのが絶妙。

匂いが好きということ自体は変態的ではない。女性の石鹸やシャンプーの匂いが嫌いな男はいないはずだし、汗の匂いに焦がれる女もやはり常識的。

 しかし嗅覚というのは人間にとってマイナーな感覚。稀少性は時に罪悪感を生む。もちろん匂いが好きということは悪ではないが多少の抵抗感はあるだろう。皆が興味を持つ禁忌。殺人や自殺、強姦などに近い性質の、好き嫌いとは別次元の未知への興味。

 作者と思しき主人公の時雄は作家として世に認められた中年男。妻に女としての魅力を感じなくなり、道行く女に痴情の眼差しを向けている。しかし彼は実際に行動を起こしはしない。時雄は弟子の芳子と関係を持とうと思ってはみるが、妻子ある身、常識的な貞操感、世間体などさまざまなしがらみから決して行為にはいたらない。年中獣じみた発情があろうとも一線で踏みとどまるのである。ただ、どうしても葛藤は絶えない。その葛藤の解消手段が芳子の夜着の汚れの匂いを嗅ぐ、という禁忌的行為である。禁忌といっても許容範囲。好感の持てる健気な臆病者。これが時雄。匂いフェチではない。触れられぬならせめて……という常識的な代替である。

 ただ、この辺り、自分を落としきれぬのか、時代のせいなのか判断しかねるが、甘い。

「匂いを嗅ぎ続けて、引き出しの奥に夜着をそっとしまった」と結ぶほうが変態度アップでリアリティが増すと思うのだが。

★北村総一郎は変態役もこなせるとおもう。

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第五回 螢川

螢川

宮本輝/角川文庫

 宮本輝は生と死を扱うのが好きな作家でして、『螢川』もともすればクサくて豚も食わんような、そんなテーマを扱っています。

 中流以下の日常生活を正面から捉えることで死のにおいを漂わせる一方、瑣末な出来事に価値を見出し生の喜びとして紡ぐ。生と死の表裏をうまく描き出しています。さらに人物の持つ切実さへのリアリティと少年漫画のような王道(『青が散る』の椎名遼平のアレを思い出す)さでもって奇跡的なシーンを加え、イメージを昇華しています。

 正々堂々、といった感がありますね。

 芥川賞を受賞した本作ですが、どういう賞かご存知でしょうか。純文学だとかエンターテイメントだとか、そういったくくりがあるわけではありません。そんな垣根は意味を成さない。純文学こそ真実の文学だと豪語し、枠で囲って格好つけ褒めあうなんて、選民思想と自己顕示欲に駆られた無知な兵隊みたいで気持ち悪い。

 芥川賞をひとことで説明するなら新人賞ということになります。当然完成度は低い。だが面白い。その作家の個性が顕著にあらわれているんです。新人として認められるには既存の作家に似ていてはいけませんからね。オリジナルティあふれる意欲作が芥川賞には多いのです。

『螢川』は宮本輝の作品群の中でも傑作といっていいでしょう。

新人の頃に書いた作品にたいして高評価を与えてしまうことに作家本人は何と言うか知りませんが。

 主人公の少年竜夫をメインに据え要所で母の千代の視点も交えるストーリー展開。全体として暗い印象を受けます。話自体も、作品内の色彩も。しかし竜夫パートにはユーモアがある。竜夫は14歳で、学校はそれなりに楽しいだろうし何と言っても未来があります。暗さに徹しきれるもんじゃない。

 以下はクラスメイトの関根との会話における台詞の一部抜粋。狙ってやっているのかはわかりませんが妙に目を引く“……”の多さにどうしても作家の意図を感じてしまう。

「……いつ頃のことよ?」

「げっ、お前、それはませすぎじゃァ」

「……さわったがか?」

「……入れたがか?

「……かもしれんちゃ」

「……熱情的やのォ」

 好奇心に振り回されるようにして漏れ出たであろう反応が生々しくて笑えます。

 一方千代パートはひたすら暗い。しかしこの暗さは欠かせない。物語を重層的に語り、テーマを浮き彫りにしています。

 この作品の見所は何と言ってもクライマックスの螢です。見事というほかない描写力ですね。螢の使い方がうまい。それまで随所に期待感を持って配置されてきた螢やその光が最後見事に活きている。 

 螢の持つはかなさ、闇に揺らぐ光はそのまま生命の灯への喚喩であり、生死感を訴えています。しかもそれらを映像で感じることができるんです。

 また単体ではなく群れを書くことによって輪廻観を喚起させる。独りよがりにならず、歴史宗教観のもつ広がりがスパイスになっています。

 宗教画のような意図的に創り込まれた絢爛さと巧妙な予定調和があるとしても、無視してしまえるほど美しく、凄味のあるラストです。

 そうだ思い出した。高校一年のときの課題図書だったよ。なに考えてんだか。15歳で理解できるわけないだろ。小説の読み方なんて教わってないんだから。当時は苦痛でしたよ、この小説読むの。

★長門裕之と余貴美子にはこういう設定はよく似合うとおもう。

……ただ『螢川』もどうやら映像化済みらしい。次回は将来映像化されるであろう作品について書こうかな。予想の意味も込めて。次回は無理か。第七回で。

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第四回 青梅雨

一個/秋その他
永井龍男/講談社文芸文庫

 さて、もうひとつの勤務地というべき藤沢を舞台にした小説は『青梅雨』を選択。もっともこの小説にとって地理的設定にたいした意味はありませんけどね。
 まずは登場人物紹介。
千三(77)一家の大黒柱
ひで(67)千三の妻
春枝(51)千三とひでの子
ゆき(72)ひでの姉 
 次にあらすじ。四人で暮らす千三らが服毒心中する話。以上。
 人物、設定、ストーリーなど特にひねりはありません。新しくもない。しかし、唯一無二の小説なんです。

 恐怖。
 とても恐い小説です。ドラマチックに騒ぎ煽る類の恐怖ではなく、静かに骨から浸されるような恐怖感がある。生活の一部を切り取っただけのストーリーを抑えた筆致で語る文章にもかかわらず、きちんと恐い。銀幕の恐怖担当者がこの小説を読んだとしたら、彼ら……、ジェイソンはチェーンソーを涙で錆びつかせ、フレディの爪は孫の手のごとく健全に見え、貞子はベリーショートにするでしょう。
 ただ日常を淡々と語っているだけの本作です。だからこそ一方で何気ない一文が響く。
 たとえば、ゆきは健康が取り柄で薬ひとつあればどんな病気も治ってしまうほど丈夫な体質なのですが、その丈夫さを家族に自慢するシーンで
「薬をちょっと服むと、それがまた、よくきくしね」
との台詞がある。恐えぇ!健康という身体的状態を鮮やかに恐怖へと置換しています。
 
 美しさ。
 四季の移ろい豊かな日本の、梅雨の季節を背景に語られていくストーリー。雨が利いています。
 梅雨もやっぱり美しい。ビルや緑や人々や、街全体を包み込み濡らしていく様には一方的だが確かな慈悲を感じる。作中においては薄い膜を張るような細かな雨に寄り添い、控えめに咲く紫陽花が見える気がします。灰色の空は原色を際立たせる。実際には本作に紫陽花は出てきませんがそう感じさせるような説得力があります。

 まったく質の異なる二つが本当によく混ざり合うんです。日本特有といっていいのでしょうか、滅びの美学みたいなものがありますよね。切腹、神風、そして心中。夜桜のもと落ち合う若い二人といえば心中を連想し、観客は共感を持って破滅に浸る。
 美意識に照らされ、恐怖感はさらなる影へと沈んでいく。

 この小説の特徴といえばあからさまな心理描写が見当たらない点でしょう。状況描写がそのまま心理描写の役割りも担っています。
 登場人物たちに悲壮感はなく日常の続きを送っているのですが、ついいつもよりほんの少しだけ楽しみを選んでしまう。日常レベルのささいなものです。酒を汲み、クリーニングしたての服を着る、その程度。しかしこういう描写により奥底にある死への拒絶を押し隠していることがわかります。しかもそれをお互いが知っている。そのような不自然さが心理描写を重ねずとも伝わってきます。
 最後に春枝が取り乱します。これまでの抑えに抑えた筆致により漂っていた不気味さが瞬間恐怖へと変貌する。ああ、彼らも平気であるはずがないんだ。それでいて淡々と過ごす彼らは立派だと、ちょっとした賛辞をおくりたくなる。ところが。

 これだけでは終わりません。この尊敬を裏切るオチが付いている。オチというほどはっきりしたものではなく余韻程度に抑えているのですが、この余韻がすごい。20ページ程度の短編にもかかわらず長編を読んだような感覚が付きまとうでしょう。

はい、妄想キャスティング。
ゆきは草笛光子かな。
む、やっぱ芸能人に疎い。誰かのアドバイスが欲しい。

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第三回 太陽の季節

太陽の季節
石原慎太郎/新潮文庫

 僕の勤め先が逗子にあるということで、逗子が舞台の小説など取り上げてみようかなと思いまして、まあ、逗子といったら『太陽の季節』をおいて他にないですよね。
 発表されたのは昭和30年。当時はすごい衝撃があったみたいですが今では古典といっていいような内容です。発表後今日にいたるまでの50年間あらゆる文化がこの小説の影響を受けたのでしょう。

 文壇ではリアリズム小説として扱われています。戦後になって若者も変わった。これが新しい時代の若者か。いや「もはや戦後ではない」ってところでしょうか。しかしね、この小説はちっともリアルじゃありません。私小説風に書いているからといって騙されてはいけない。80年代後半から90年代にかけて横行したトレンディドラマよりなおリアリティがない。
 主人公たちはいわゆる不良です(ツッパリと言ったほうが似合いますが)。不良だから軽々しく暴力を振るう。そして子供です。精神的に幼い。徹底して利己的、気まぐれ。
 とここまでならたいしてリアリティを損なうことはありません。体は大人でも精神はガキのまんま、なんて特に女性の方で頭を悩ませ続けている人も多いのではないでしょうか。何であの男はあんなにガキっぽいんだと。
 ところが主人公グループはそろって金持ちなのですよ。それも並みの金持ちじゃありません。夏にはヨットやクルーザーでナンパをし、別荘で一夜限りの恋を繰り返す。考えられません。昭和30年ですよ。現代でもごく少数でしょう。ここまでの金持ちなら女性陣の「恋人が、あるいは近くにいる男どもがガキっぽい」なんて悩みはささいなことに成り下がりますよね。
 僕なんて450円のワインとジンで朝まで友人と青臭い哲学談義に耽る70年代のような学生生活でしたよ。発泡酒に決して手を出さなかったのはささやかなる抵抗といえよう。

 クルーザーや別荘は小道具にすぎずこの作品がリアルというのはあくまで若者の心理である。ってことなんでしょうか。いや、いくらなんでもガキすぎます。

 この小説の面白いところは戦後日本の若者のリアルな実態ではありません。視点のバランスなんです。主人公である龍哉とヒロインの英子の視点を交互に繰り返しながら作品世界を語っていく形式ですが、実は龍哉の兄である道久というフィルターを通して書かれているように僕は思います。なぜなら青春小説であるにもかかわらず共感を求めた書き方をしていないからです。主人公を悪役風に書いている。節々で咎立てているんです。さらに道久が登場人物の中では浮いています。道久も決して好人物というわけではありませんが、確実に一線をひいている。常識人としての節制がある。

 龍哉のモデルは慎太郎の弟、裕次郎でしょうね。真面目な学生として己が道に誇りをもって生きる石原慎太郎の、一方で隠しきれない奔放な弟への憧憬。そうした願望が小説という形をとって世に生まれ出たのだと、そう結論付けておきます。

(
この記事の冒頭の文章は『楢山節考』を意識してるんですよ)

もちろん映画化済みだし、最近連続ドラマ化もしたんだってね。なので妄想キャスティングは省略。

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第二回 バトル・ロワイアル

バトル・ロワイアル
高見広春/太田出版

 都心特有の朝の質感が染みわたっていった。店の外からは鳥の鳴き声がきこえてくる。東京でも早朝には鳥の鳴き声が響くのだ。僕はバーカウンターの木目に目をおとしながらウィスキーと煙草が混じった息をまるごと一夜分吐き出した。
「それ、おもしろいの?」
三つ隣の席に座った美女が屈託なく話しかけてきた。女がストローで指した先には読み終えたばかりの『罪と罰』が置かれている。
コーヒーを二つ注文し、僕は徹夜で読んだ本について語り始めた。

 と、そんな展開なら軟派系文学青年みたいで格好いいのですが、現実は期待を裏切りつづける。やはり。
 実際には煙草は喫めないし、場所は家賃42000円(風呂ナシ、便所アリ、水道代込み)の神楽坂にあるアパートだったし、美女なんているはずもない。発情期の野良猫の叫び声に辟易しながら徹夜で読んだのは『バトル・ロワイアル』です。
 徹夜しましたよ(徹夜だけは本当です)。読書で徹夜。読徹。この一回きりですね。中学3年生の一クラス総勢42名が最後の一人になるまで殺し合いをしなくてはならない話です。自分ならどうするという未知なる己への好奇心、臨場感、ミステリ特有の気持ちよいじれったさ。瞳に張り付いたコンタクトレンズをはずす手間も惜しむほどぐいぐい読まされました。

 深作欣二が映画化したことでバイオレンスと勘違いしてる人もいるかと思いますが、全然違います。実際は究極のヒューマンドラマです。
「お前よくハズカシイこと平気で書けるよな」
と言われそうですが、そのとおり、ハズカシイ小説ですね。同時に尊くもあるのですが。なにせテーマは信頼ですから。しかし読んでいる最中に気恥ずかしさはないですね。陰惨極める舞台がうまく臭み消しになっている。

 この物語は非現実的な話ですが、実はリアルな小説なのではないかとおもうんです。というのもこの舞台設定、病気にそっくりなんですよ。病気は完全に予防することはできません。抜かりなく検査を繰り返したってかかる人はかかってしまう。運の要素が多分に含まれます。大東亜共和国が人類の病気で、その症状のひとつがプログラム(作中で繰り広げられる殺戮ゲームの名称、政府が中学三年の一クラスを無作為に選出する)というわけです。
本文中の次の文章がそれをあらわしているでしょう。
「誰かが、うっとうめいた」
自分の所属するクラスがプログラムに選出された直後の描写です。ただうめく以外にとるべき道なんてないんですよ。病気の発症が発覚した直後だってそうでしょう。
 偶然に、突然に引き起こされる不幸。現実に起こりうることと理解しつつも覚悟まで備わることはなく、忙しい日常に置き去りにされる不幸。そういう死神の息吹を耳元に感じられる常識的な危機感が備わっているなら、この作品はリアリズムとしての様相を呈すでしょう。
 そんな緊張感が中心に貫かれているからこそこの物語は究極のヒューマンドラマなんです。

 読む際にはぜひ、地図と名簿をコピーして、登場人物になりきってください。もちろん徹夜で読んで。想像力を駆使して冷たい自分、優しい自分の境界をもてあそんでください。
 読み終わると自分は登場人物の中では誰に近かったのかな、と誰しも考えてしまうと思います。僕の場合、古い友達に
「俺は国信慶時(男子7番)っぽくないか?」
と言ったら鼻で笑われました。全然違うってさ。

柴崎コウは光子じゃなくて貴子だよね。




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第一回 ノルウェイの森

ノルウェイの森
村上春樹/講談社文庫

 読書酔い、と自分で勝手に呼んでますね。
 本の世界に引き込まれなかなか現実世界にもどれず虚ろな日常を強要される読後状態。この小説ではじめて体験しました。

 このときの読書酔いはひどかったです。
 読後、心は乱れながらも腹が減ったことに気づきました。いや、気がついたら腹が減っていたのか。どちらか定かじゃないけど近所のスーパーに向かったんです。レジの女性のネームプレートが妙に狭くなった視界の端に映りました。
○○直子」
直線だけで構成された「直」の字面が、彼女の、真っすぐ終わりへと進んでいく事しかできなかった苦悩を思わせ、僕は焼きうどんを抱えたまま再び喪失感に埋められていきました。

 読んだ年齢によってかなり印象がかわってしまう種類の作品でしょう。僕の場合、初読は19歳だったかな。個人的にはちょうどよい時期に出会ったと思いますが、一般的には高校2年くらいで一度読んでおくとある種の至高体験を味わえるかもしれません。高2の夏とか。響きもいいし。高2の夏。

 ただ文学という学問的、芸術的評価は低いようでしばしば通俗小説と批判されるこの作品。確かに時代の節目節目を切り取った作品に見られがちの強いメッセージ性があるわけではありません。戦後混乱期の「日本が世界と戦うための模索」とか、60年代の政治の季節をテーマにした作品なんかと比べると社会性に乏しくはある。
 しかし、個人としての生き方に焦点を定め、徹した世界観は21世紀に向けたわれわれのあるべき姿を見事に写し取っていると思います。我々はみんな多かれ少なかれ個人的な問題を抱えているわけだし、その問題を丁寧に時間をかけて解決する。それもこの小説で扱われているのは恋愛という「一般的」な問題です。そうした意味できちんと社会性を孕んでいる。
 通俗小説という揶揄の混じった表現に的確ではありませんね。人々の営みを個人のレベルで見たとき、通俗的にならざるを得ないのでしょう。

 この小説は恋愛小説ですが決して三角関係の話ではないと思うんです。二人の女の間で揺れる心理を主題においていない、ということです。
 ワタナベと直子、ワタナベと緑の二当事者関係が同時的に書かれているだけなんです。証拠に直子と緑に接点はまったく見当たりませんし、作者はそれを意識的に書いている。
 二者択一の積み重ね、それも直子と緑を天秤にかけているのではなくワタナベが直子をとるかとらないか、緑をとるかとらないか。そんなワタナベの身勝手さがこの小説の肝ですね。
 
 もっとも、直子の側の二者択一も、あるのだけれど。

演るなら、突撃隊は、えなりかずきで決まりでしょう。
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